書評:藤田昌志著『明治・大正の日中文化論』を読む
<本文>
ー「中国像の歴史的歪みを見据えた日中文化観の比較研究」ー 代田智明(東京大学大学院教授)
日中間には相互に誤解が多い。中国から漢字文化をはじめ、仏教や儒教の影響を受けたという事実が、
かえって相互理解の障壁となっている気配すらある。日中両文化には関連性もあるが、相違も大きい
ことを、歴史を遡って深く認識しなければならないだろう。本書は、そんな比較の意図を明確にもっ
て書かれた書物である。魯迅と厨川白村の関係を皮切りに、日中文学観の相違、岡倉天心、志賀重昂、
三宅雪嶺、内藤湖南らの中国観、周作人の日本観を論ずる。日本の中国像には歴史的な歪みがあって、
これを知るには、近代日本の思想を検討する必要があり、本書はその意味で、真っ先に手に取る価値
があると言えよう。中国研究の側からすると、文献的にやや物足らない部分もあるが、叙述は平易で
分かりやすい。思想を社会状況と対応させる手法も説得力があろう。
ふたつ論点を提示しておきたい。中国文学の政治的傾向という指摘は頷けるが、作家も多様であって、
繊細な文学的表現を目指した者もいる。魯迅を一概に「載道文学」の範疇に入れるのは、魯迅を専門
とする評者としては、やや疑問である。日本近代文学の特徴として挙げられる「懺悔」が、中国文学
でも中心的テーマだったことは、すでに指摘されていよう。逆に日本近代文学それ自身が、文学とい
うイデオロギー的「政治性」のなかにあったことも指摘しておかねばならない。
もう一点は、内藤湖南に関して。「平民発展時代が即ち君主専制時代である」というテーゼは、現在
に連なる中国史学の重要な問題であった。論争好きの評者としては、湖南をめぐる著者の子安宣邦批
判に、最も読み応えを感じたが、島田虔次から溝口雄三に到る系譜を視野に入れると、もっと面白い
議論になっただろう。湖南の再評価はすでに聞かれるが、本書の見所のひとつである。なおこれらの
論点は、井の中の蛙のたわごとなので、本書の読後感として、日本の近代思想を中国像から切り込む
面白さをたっぷり味わった余韻が残った。日本学、中国学を志す人だけでなく、広く一般の読者にお
勧めしたい。 <評・代田智明>
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