タイトル:物語を経済学で読むと何が起きるか
氏名:國場弥生(プラチナコンシェルジュ・ビジネスMBA)
よく言われるように、人間は周囲を無視して、自分の利益だけを追求する単純な生き物ではない。
なるほど間近に迫った困難には目を閉じるし、目の前の苦痛は極力、回避する。逆に、赤ちゃんや
ペットは抱きしめるし、近くにある好物にはすぐ手を出す。自分の力を過信して、周囲との相関関
係を忘れることはあるが、他人の苦労に共感することも多い。共感を通じてその苦労を自分の上に
投影するし、結果として利他的な行動に走ることもある。ただし、いつもそうするとは限らない。
新しい経済学はこの複雑な人間の経済的行動に科学的な根拠と分かりやすい説明を与える科学に変
わり初めている。
中でも「意志力」を経済資源と見る着想には、大きな可能性が秘められている。乗車前の禁酒や
公共施設での「禁煙」は普通、「負の外部性」という論理で説明されるが、「分別意志」や「禁煙
意志」の増殖や枯渇という説明も可能になる。アルコールや喫煙、ギャンブルについても同様であ
る。そうだとすれば、「意志強固な彼女ら」や「意志薄弱な彼ら」を経済研究の対象にして、その
「内発欲」の成り立ちや仕組みを解き明かすことが可能かも知れない。
無用な強制を避けて人間を動かす「内発欲」を「インセンティブ」ということもあるが、そのイ
ンセンティブを成り立ちと仕組みに従って正確に理解することは、結局のところ人間生活や人間組
織を正確に理解する試みが欠かせない。インセンティブを形成する要因の一つとして最近注目され
るのは、不思議なことに「内発欲」の対極にある「自制」だという。『日本永代蔵』の論理で言え
ば、この「自制」を説くのは語り手の役目である。そして市場や流通過程から得た「気付き」を実
行に移し、ビジネスに仕立てることで盛大な「内発欲」を発揮するのは、この物語30編、30人の主
人公である。市場や流通過程がいわば「物語の糸」として主人公を導く事もあれば、その「物語の
糸」が主人公を没落に向わせる事もある。主人公はさながら誘惑されるように、目先のことだけに
目を奪われるし、ほとんど意志の枯渇かと疑われる失落者も出現する。
あまり多く我慢して視野狭窄となり、目先のことだけを重視す主人公を見るたびに思う事は、少
なくとも経済学的に言えば
タイトル:物語の読み方に「秘訣」がある
氏名:瀬古 博(俳人)
「物語」は、読者を解釈に向って強く誘引するという意味で、特殊な機構を持った読み物である。
まして世代を超え、数世紀もの間、生き抜いてきた文脈には、特殊な語りの「機構」がある。
17世紀書かれた『日本永代蔵』の語りもまた、作者があたかも声優のように、物語を語り分ける
「機構」を持っている。時に「見てきたように」物語を語り、語り手自身の心内語を披露する。
語り手のメンタリティーもまた、その「口ぶり」から聞取ることができる。あからさまに言わず
とも、羽織・袴に駄洒落・軽口を連発する所作や声調で、寄席に出入りする落語家が表象されるのと
同じである。「説明」を省略するこの種の語りの操作を通じて、出来事も語り手も、臨場感を伴って
再現されるところに、この種の「語り」のたくみさがある。
さて、その生き生きした語りの場では、次々に生起する各出来事は、前後関係、因果関係に従って、
綺麗に整理された「分かりやすい語り」とはなりにくい。前後関係、因果関係の見えない所で、現実
のドラマは進行しているからである。このため読者は、語り手の駄洒落・軽口の中から出来事のパー
ツを拾い集めて、前後関係、因果関係を再構成する必要がある。
作者、井原西鶴が文章修行に打ち込んだ「俳諧」のリテラシー、「滑稽」、すなわち俳優の笑言が
聞き手の心に「かすかに当たる」心地こそ肝要である。具体的には、誇張された語り手の「欲の目」
から吐き出されるアナロジー、アレゴリー(寓意)、メタファー(暗喩)、もじり、誇張の強弱が、
その「心地よさ」のパルスの震源に当たる。
ここに現れた「欲の目」は、福徳者のそれではない。また福徳の成就を知らしめる全知者のそれでも
ない。語り手の「欲の目」の背後には「経済」「経営」「営業努力」が貫流しているが、それを経済
・営業の論理で詳述する積もりは、語り手にはない。その作業は、読者にゆだねられているからである。
読者の手にゆだねられたこのサブテクスト、これを「ユニバーサル空間」と呼ぶなら、『日本永代蔵』
の醍醐味は、その「ユニバーサル空間」を出現させることにある。そして、その時の到来を実現させる
のは、他ならぬ「読者」である。おそらく本書の出版を機会に、『日本永代蔵』、牽いては西鶴本一般
の読み方は大きく更新されることになるだろう。
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