巡礼記『おくの細道』
濱森太郎著
\1,800+税
かつて、アジアの片隅に、「礼儀の高等学院」と讃えられる小国がありました。この国の国民の誠実さ、勇敢さ、礼儀正しさは、宣教師達の報告書によってローマ法王庁にも聞こえていました。この国でいう「文化」は、カルチャー(語源はcultivate、耕す)ではなく、文言をもって他人を感化する行為を意味しました。その「文化」を実現するためには、詩的な物の見方と、詩的に生活するルールの修得が欠かせませんでした。
この国では、人間の誕生、成人、結婚は、詩歌をもって祝福され、死者には辞世の一句が所望されました。祭壇を飾る天神や和歌三神の魔法の手が荒ぶる自然や人情を取り沈めていたからです。
京都、大阪、江戸の町々では、諸国を巡礼する[俳諧師達][はいかいしたち]が、吟遊詩人よろしく風流な諸家を表敬訪問する時代でした。表敬を受け入れる在所の風雅人たちには、返句を返す義務があり、それを苦にして表敬の名誉を拒むことは恥とされました。
こうして句文贈答の習慣が行き渡ると共に、心に残る風物を事前に収集する入念な風雅人達も現れてきました。それは「[造化][ぞうか]に随ひて[四時][しいじ]を友とす」る新しい生活習慣の誕生を意味しました。その生活習慣の中では、「見る処、花にあらずといふ事なし。思ふ所、月にあらずといふ事なし」(笈の小文)というに似た、美的な想像力の錬磨が欠かせませんでした。この社交習慣を受け入れ、美的な光景を多数、記憶の中に蓄蔵することで、諸国の風雅人達は、薄汚れた自己の想像力を洗浄し、この世界を新しく受け入れました。
そうした十七世紀の古き良き俳句の国を慈しむために「巡礼記『おくのほそ道』」を刊行しました。その古き良き俳句国の復活と存続は、松尾芭蕉の希望でもありました。その俳句国で、今も俳句を愛好する読者の皆さまに、本書が少しでもお役に立てば、幸いに思います。勝手ながら、ご一読をお願いいたします。
書評
『巡礼記『おくのほそ道』―風流人の別天地を作れ―』濱森太郎著 ―躍動する芭蕉の世界―
佐藤勝明(和洋女子大学教授)
副題ともども、何という魅力的な書名であることだろう。日ごろ芭蕉の作品を読みながら、うまく言葉にはできないまま、漠然と感じていたことを、ずばりと言い当ててもらった気がする。「風流人の別天地を作れ」とは、いわれてみれば、まさに芭蕉がその生涯と全作品を通じて、私たち読者に発したメッセージそのものであろう。そして、宗教ではなく「風流」のために生涯を賭した芭蕉の、象徴的な作品『おくのほそ道』は、その意味でたしかに「巡礼記」に違いない。
本書は、基本的には主人公たちの道程に沿う形で、それぞれの場面のもつ意味や意義・意図などを、本文や諸資料に基づいて読み解いていく。全体は、「序章 蕪村の慧眼―『おくのほそ道』の方法」を枕に、「第1章 『おくのほそ道』の作意」「第2章 「別天地」への道」「第3章 「別天地」の名残」「第4章 まとめ」と続き、「第5章 『おくのほそ道』訳詞篇」が付される構成をとる。さらに、第1・2・3章はそれぞれ3から4の節からなり、たとえば「人間関係の造形法について―同行二人の審級と信認について―」「案内者の心性―「道案内」の意味について―」「風羅坊、北陸道の無情―愛別離苦の考察―」など、そのタイトルを見ただけでわくわくしてくる。そして、各記述はその期待を裏切ることがない。
ここに一々を紹介する余裕はないものの、たとえば「これまで行われてきた『おくのほそ道』の虚構論議は、事実関係の相違だけを問題にして、そこに繰り返される事実関係の相違が主人公の人柄を照らし 出す鏡なのだという事実を見過ごしてきた」(第2章―1)、「その驚愕を再生するに当たって、松尾芭蕉が内々準備したことは、風羅坊の想像力の働きを利用することである」(同―2)などとあるのを見ても、指摘の的確さを納得しないわけにはいかない。作者と作中人物の混同こそ、これまでの俳諧研究が往々にしてはまりがちであった、陥穽にほかならないからである。こうした基本的認識の上で、著者はこの作品を「一念一動の記録」と位置づけ、「あの時、あの場に沸き起こった一過性の実感の波動を的確に伝達する、人間的な記録が誕生したのである」(第4章)とする。著者濱氏と、そして作者芭蕉と、ここまで旅路を同じくしてきた読者には、この一文が何ともいえぬ説得力をもって実感されるに違いない。
なお、付言すれば、第5章の「訳詞篇」は、「思うに行道する日月は、希代の「旅師」にして、行き交う「時間」もまた旅人でござる」といった具合に、「主人公の独白体で翻訳した」(序章)、大変にユニークな試み。芭蕉の文章とともに、著者によるこの「俳諧らしく愉快」(同)な訳文も、ぜひ繰り返し声に出し、味読していただきたい。(2006/5/19)
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